わが子を非定型発達という負の呪縛から守るために

今日もゆる2ちょこ2♪していますか(^_-)-☆

前回は、「非定型発達の子供には画面を見る時間を減らして生の楽しみを!」ということでビル・ゲイツ氏の事例や韓国で行われた政府のネット依存に対する政府の施策などをご紹介しました。

何回かにわたって「非定型発達」だと一般にも知られている俳優のトム・クルーズビル・ゲイツの事例などをご紹介してきました。

韓国では、自閉症スペクトラムの有病率2.6%(7歳及び12歳の児童を対象)という調査結果を受け、16歳未満の児童に対して、深夜0時から朝6時までネットゲームへのアクセスを政府が規制する事態に陥ったという歴史があります。

その因果関係は明らかにはされていませんが、ネット依存の社会は留まることを知りません。

私たち大人が子供をネットの弊害や非定型発達というレッテルから守るにはどうすれば良いのでしょうか。

わが子を負の呪縛から守るために

前回に続き、今回も精神科医の岡田尊司の著書『発達障害と呼ばないで (幻冬舎新書)』より引用させていただきたいと思います。

発明王トーマスーアタバーエジソンが、今日から見れば「発達障害」であったことは、よく取り上げられる話である。

トーマス少年が今の時代に生きていて、同じように教室を駆け回り、イタズラをしていたら、「アスペルガー症候群」や「ADHD」という診断を下されたかもしれない。

しかし、一つ決定的で重要な違いがある。

トーマス少年は「発達障害」とは診断を受けていないということである。

それどころか、彼の母親は、彼に否定的な熔印を押そうとした学校ではなく、わが子の可能性を信じたのである。

トーマス少年は校長から「馬鹿」呼ばわりされ、そのことに傷ついて学校に行きたくないと言った。

母親はその事実を校長に確かめると、学校を辞めさせて、自分の手で教育をほどこす決心をしたのだ。

もし母親が、校長の言うことがもっともで、わが子に欠陥があると考えていたらどうなっていただろうか。

校長に平身低頭して、わが子によく言い聞かせるから学校でも厳しく指導してくれと、校長の見解に同調していたらどうなっていただろうか。

トーマス少年は逃げ場を失い、否定され続け、自信も自己有用感も粉々に破壊されることになっただろう。

母親も、トーマス少年を困り者扱いし、否定的な言葉や態度を示しただろう。

トーマス少年がもっていた自分を信じる力や自分の意志によって邁進していく力は損なわれ、その後の偉大な発明家で事業家でもあるエジソンは育たなかっただろう。

それどころか、彼はひねくれ、自己否定に取りつかれ、無気力な自信喪失者になるか、周囲を困らせることで快感を味わう犯罪者となって人生を終えていたかもしれない。

かの校長の見立てと同様、「発達障害」という診断さえも、さして当てになるものではないことを忘れてはならない。

非定型発達の基準は時代とともに変化する

高機能自閉症やアスペルガー症候群と診断された子どもの四分の一が過剰診断だったという事実にも示されるように、一時的な状態だけをみて行う診断には、当然限界が伴う。

しかも、診断自体が拡張された結果、適用範囲が五~八倍程度に広がっていることも頭に入れておく必要がある。

診断にはある種のブームや流行のようなものがあり、医者は流行に遅れまいとするように、せっせと新しい診断名をつけたがる傾向もある。

流行が去ってしまえば、古臭い診断名はあまり使われなくなったりもする。

しかも、診断基準は猫の目のようにコロコロ変わる。

ついこの間まで、あたかも永久不変の真実であるかのように、もっともらしく使われていた診断名が、予告もなく無くなったりする。

もちろん、つけられた患者に相談などあるはずもない。

一部の医者が決めてしまうことだ。

現場で患者を日夜診ている医者でさえ、その病名がなくなっていることを知らなかったりする。

子供が非定型発達とわかった時点で親はどう対処すべきなのか?

実際、DSM-Vへの診断基準の変更に伴い、これまで自閉症スペクトラム(広汎性発達障害)と診断されていた患者の一部は、診断から外れる。

今日使われている発達障害の診断基準は無論のこと、その概念自体も、もう十年もすればすっかり変わってしまっている可能性が高い。

発達障害という言葉自体が、廃れ始めているかもしれない。

しかし、その診断を下された子どもの方は、そうはいかない。

子ども時代にそうした診断を背負わされたことは、その子の成育史に永久に刻まれたままであろうし、その子の発達や自己観や人生に何らかの影響を与えずにはすまないだろう。

だとしても、子どもはただ言われるまま、されるままになるしかない。

アスペルガー症候群と診断された子どもの約二割は、成人した段階で診断基準に該当しなくなっていると言われている。

果たして、その子どもたちに「障害」という診断が必要だったのか、そうすることがベストの方法なのか、疑問が湧くのである。

「障害」という診断が、そのマイナス面を補って余りあるほどのプラスを生じる場合には、もちろんそれでよいのだが、そうでないケースが何割か存在することも否定できないように思える。

子どもたちの可能性を伸ばすための行為が、子どもたちの可能性を縮めてしまうことにだけはなってほしくない。

その意味でも親は、たとえ専門家の言うことであれ、すべては鵜呑みにしないことである。

その子の可能性をほんとうに信じてやれるのは、親しかいない。

親が、あの校長と同じ立場に立ったとき、子どもはもう味方を失ってしまう。

その時代の“常識”が、必ずしも正しくないということを忘れてはならない。

しかも、その”常識”は専門家の間でも、徐々に崩れ始めているのである。

出典:岡田尊司の著書『発達障害と呼ばないで (幻冬舎新書)』より

あとがき

現役の医師や関係者がこれだけの発言を、しかも活字にして公にされるのには相当の覚悟があっての事だと思われます。

世の中に警鐘を鳴らすとともに、当事者である家族に対する啓もうの意味もあるでしょう。

もちろん、一般の人ももっと勉強して理解すべきことです。

私たちは、ちょっと周りと違った感じの子供が居ると、それだけで色眼鏡で観がちです。

子供は社会の宝とも言われるように、未来もあれば役割もあります。

私は、非定型発達に関する専門家ではありませんが、遠隔セラピーを通じて関る方々がいらっしゃいます。

そんな子供を守るだけでなく、やはり社会に出ていくためのきっかけ作りをサポートしたいと常日頃考えています。

今は個の時代が進んでいますが、改めて地域やコミュニティの形成が求められている時ではないでしょうか。

当事者だけでなく、人としての在り方や生き方も方向転換するべき時代になっていると感じるのは私だけでしょうか?

歴史や古き良き時代にも学ぶべきことは沢山あると思います。

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